徳川グループ傘下の製薬会社・新選製薬。薬品開発から製造、販売すべてをこなす一部上場の優良企業の本社ロビーで
所在なさげにそわそわと立っていた千鶴は、受付に座っていた綺麗なお姉さんに「雪村様」と声を掛けられてついうっかり飛び上がってしまった。

「あっ、はい!」
「お待たせして申し訳ありません。派遣元から本日付で就業される旨の確認が取れましたので、そちらのエレベーターで
直接24階までお上がりください。下りると右手に営業部がございます」
「え………と、はい、………ありがとうございました」

にっこりと一分の隙もない営業スマイルを前にした千鶴には言えなかった。
せめてその営業部まで貴女に案内してはもらえませんか、などと一人前の社会人として、やはりどうしても言い出せなかった。

(初日から遅刻して怒られるのが怖いんですとは………言えないよねぇ。当たり前だけど)

もちろん通勤電車の車両故障による正当な遅刻であることも派遣会社の担当営業には連絡済だし、おそらくそのことは就業先の担当者にもきちんと伝わっているはずである。
寝坊したわけでも居眠りをして乗り過ごしたわけでもない、れっきとした止むを得ない事情があっての遅刻なのだ。
ならば何を恐れることがあろうかと、エレベーターにひとりぽつんと乗っていた千鶴は長い長い上昇時間の中でそう結論を出し、ポーンと軽やかな音を響かせて止まった
24階のフロアに勇ましい一歩を踏み出した―――――その矢先だ。

 

「ふざけてんのかテメェ、ああッ!?」

 

(え、わ、な……何事っ!?)

エレベーターホールを出た少し先から大音声の怒声が響いた。
それが聞こえてきたのは方角からして右手側、つまりは千鶴の目的地である営業部なわけだが、いやいやまさかねと
残り少ない空元気を絞り出して、たった一つだけあるドアにそろそろと近づく。
怒鳴り声は先ほどの一回きりだったようで、室内からはもう数人の人間が談笑する声しか聞こえてはこない。
スチール製のしっかりしたフレームに、磨り硝子の目隠しをデザイン的に入れたガラス張りのドアを覗き込み、まずは安全を確認する。

(もう、大丈夫そう…………かな?)

慎重に部屋の中の様子を窺って、今度こそ!と目の前のオシャレなドアノブに手を掛けようとした途端、千鶴の視界の中にいた
三人の中でも一番背の高い男の人が唐突に笑っていた目をクワァッと見開いて、

 

「平助ぇッ!!」

 

一番小さな人の頭上に思い切り拳骨を振り下ろした。

 

ガンッッッ!!!―――どがしゃーんっ!!!

 

骨と骨がぶつかるような音と水平に吹っ飛ばされた小柄な人影に思わず身を乗り出しかけたものの、間髪入れずに聞こえてきたものすごい騒音に
事の惨状を想像した千鶴は思わずギュッと目を閉じて肩を竦める。

(………………………………………………い、いったぁー………………………………!!!)

痛い。あれは痛い。
絶対に痛い。すぐさま冷やさなければ確実にたんこぶになる。
―――――などと冷静に考えている間にも、室内は混沌とした様相を呈し始めていた。

「〜〜〜いッ、てーよ!!!左之さん!!」

吹き飛ばされた人物は全然めげずに元気な声を張り上げ、

 

「いつまで経ってもウダウダくだくだと……おい左之!そこの散らばった書類ちゃんと戻しとけ!!
―――だから…っテメェじゃ埒があかねえ、山南さんはどしたあ!?」

 

いの一番に怒声を響かせていた人はまたもや怒鳴り始めるし、

 

「ちょ、ちょっとちょっと土方さん、俺だけかよ?」
「いやだって平助吹っ飛ばしたのおまえだろう」
「つーか左之さん力強すぎ……って〜」

ついさっき唐突に鉄拳制裁を食らわせた背の高い男の人の抗議にがっしりとした体格の人物が即座にツッコんだ。

 

(ど………どうしよう?)

 

もはや入るには入れないまま、一体どうするべきかと千鶴はドアの前で固まる。
だがいつまでもこうしているわけにもいかないし、これは一度担当営業の千姫に電話をしたほうがいいのだろうかとバッグから携帯電話を取り出した、その時だ。

「あーあー、もう。ウチの連中は朝っぱらから何やってるんだか」
「源さんは―――……ああ、電話中なのか」
「っ!?」

いつの間にか立っていた男二人に背後を取られ、千鶴は驚きのあまり携帯電話を危うく落としかけた。
慌てて振り返ろうとしたのだが、しかし何故だかそのうちの1人に両肩を掴まれていて振り返れない。

「それにしても土方さんって朝から元気だと思わない、斉藤君?嫌だなぁもう、今入ってったら絶対お説教されちゃうよ」
「確かに元気だとは思うが―――説教?」
「昨日連絡つかなかったせいで、朝イチで寄ってきたとこアポなしだったから」
「………それは自業自得だろう」

半ば混乱しながらも仕方なく頭上から降ってくる会話に耳をそばだて、後ろの二人がここの関係者らしいことだけはどうにか窺えた。

……けれど、ちょっと待ってほしい。妙にニコニコした方の大きな手はどうして自分の両肩を掴んでいるのか?

ヘビに睨まれたカエルの如く動けない千鶴の背中を、いやぁな汗がダラダラと滝のように流れる。

「あのっ、わたし……!」
「―――話は中で聞く」

何か言わなくてはと口を開いた瞬間、長い前髪で右目が隠れた妙に迫力のある男の人がぼそりと言った。
短いながらも有無を言わさないその言葉に、千鶴はすぐさま口を噤む。
なんというか、迂闊なことを言ったら斬られそうだ。刀はないけど。
そんな緊迫したやり取りとは裏腹にさっきからずっとニコニコしている方の人が肩越しに片手を伸ばしてきて、

「ほら、斉藤君怖いって。いいからとりあえず入ろ。あのくらいでビビッてたんじゃこれからやってけないよ。キミ」

千鶴が先ほどから何度も開けるのを躊躇ったオシャレなドアノブをいとも簡単に掴んで押した。

「ねぇ、土方さん?」

ガチャリと開いた扉の内から、途端に複数の視線がこちらを向く。

そのうちの幾人かはすぐに千鶴の存在に気がついて目を丸くするが、部屋の一番奥にある大きなデスクでたった今持っていたばかりの受話器を電話機に叩きつけた人物は違った。
切れ長の涼しげな双眸は怒気を孕み、ギンと音がしそうなほどに鋭く背後の男を睨みつけ、

「てめぇ総司!!朝っぱらからアポなしで行くんじゃねえって何度言ったらわかるんだ、ああっ!?」
「またクレームですか?そんなのどうせ何も知らない上の人でしょ。担当の人は随分と有り難がってくれましたよ、朝早くからすみませんって」
「そういう問題じゃねえだろうが!お前あの会社担当して1年経つのにまだそんなこともわかんねぇのか!?」
「あーもう、はいはい僕が悪かったですよ。どうもすみません」
「おま…っ、なんだそのどうでもいいみてぇな返事は!!!」
「だって実際どうでもいいですし。それより、ほら」

暖簾に腕押し、糠に釘。いやむしろ猫に小判?豚に真珠?―――などと、自分の真上と真向かいで繰り広げられる盛大な舌戦にただただ唖然としていると、
背後の男は突然もう飽きたと言わんばかりの投げ遣りな返事をして千鶴をズイと相手のほうに突き出した。

突然のことにハッと我に返ったものの、先刻の怒鳴り合いの名残か今も眉間に深々と縦皺を刻んだ眼光鋭い不機嫌な男に思い切り睨みつけられては、ただの小娘には為す術もない。

「……っ、あ、あの……」
「………なんだ、そいつは?」

ここは新しい職場なのだ。まずは自分から名乗らなくてはと口を開こうとするのだけれど、どうしても目の前の人物がずっと聞こえていた怒鳴り声の主だと思うと声が出ない。
自己都合ではないとはいえ、就業初日から遅刻をした身だ。叱り飛ばされても仕方がないと思ってはいたが、もしもあの勢いで怒鳴りつけられたらと思うとどうしても足が竦んだ。

―――――けれど、救いの神はいたのである。

 

「きみ、雪村君だろう?」

 

ふと響いた落ち着いた声に視線を巡らせると、入口に近い側の奥にある一際書類の積み上がった机に座っていた人影が受話器を置いて席を立っていた。

「千姫さんから連絡は受けてるよ。無事に着いてよかったねぇ」

穏やかな空気と人の好さそうな笑顔。その優しい眼差しと目が合ってようやく、ずっと緊張していた千鶴は心底からホッとした。
そうして予想外に掛けられた労いへの礼と謝罪の言葉を口にしながら深々と頭を下げる。

「あ……、ありがとうございます。初日から遅れて申し訳ありませんでした!」

「いやいや、車両故障じゃ仕方がないさ。2時間も立ち往生だものなあ。大変だったね」

周囲の人たちよりも少しだけ年嵩なその人がひたすら恐縮する千鶴の肩を宥めるようにポンポンと叩いていると、

「………あの〜、源さん……?」

なんとも物問いたげな声がした。ふと気がついてみれば周囲からの視線はすべて2人に集中しており、そういえば話していなかったかなと源さんが笑った。

「すまんすまん、まだ紹介していなかったな。こちらは今日から派遣社員として働いてくれる雪村千鶴君」
「あー!そういや先週言ってたっけ、新しく派遣さん雇うことになったって」

思い出したようにポンと手を叩いたのはつい先刻背の高い人に殴られた人物だ。

「あれ。そんなこと言ってたか?」
「言ってたは言ってた、が……源さん。お…っ、女の子だなんて言ってなかったじゃねぇか!」

その言葉に殴ったほうが隣へと首を巡らせ、そこにいた肩幅の広いガッチリとした体格の男が何故だか恨めしげに言って口を尖らせる。
すると一瞬千鶴の方を見やって源さんは笑った。

「いやぁ、先に言っておくと永倉君が緊張して週末も落ち着かないんじゃないかと思ってね」
「―――だってよ?」
「………そりゃあお気遣いどうも」

意味深なやり取りの意味は千鶴にはわからなかったけれど、いつのまにか険悪だった雰囲気は払拭され、明るくあたたかな空気が場を包む。

「まぁ、そういうわけだからトシさん」

そんな中でも先ほど千鶴を誰何した人物はまだ不機嫌そうな顔をしたまま、けれど渋々頭を掻いて頷いた。

「……ったく、わかったよ。けど、それならそうと言えばいいだろうが」

「いやそりゃ無理でしょ。あんな睨まれたらビビって口なんて利けないって」
「だよね。むしろ派遣の子が来ることスカッと忘れてた土方さんの方が悪いんじゃない?」
「おまえら……!」

再び深くなった眉間の皺に見ているだけの千鶴はハラハラする。
けれどすぐ近くにいた背の高い―――あの小柄な人物を唐突に殴り飛ばした人が、そんな彼女の視線に気付いたのか、気にするなと言って笑った。

「あのくらいはいつものことだからな。なぁ斉藤?」
「ああ……早いとこ、慣れた方がいい」
「は……はぁ」

またもや手加減なしの舌戦を繰り広げる二人を余所に、源さんをはじめとする他の面々は素知らぬ顔だ。
自分もいつかこの状況に慣れる日が来るのかは甚だ疑問だが、そうも言ってはいられない。

(今日から、ここでがんばらなくちゃ!)

初っ端から随分とインパクトのある職場にもめげず心の内でそう唱えると、千鶴はもう一度ぺこりとお辞儀をしてこれから同僚になる人々に挨拶をした。

「雪村千鶴です。今日からどうぞよろしくお願いします!」

 

 

 

 

ちなみに座席ですが、部屋の中には机四つの島が二つあって室内の奥側にはドアを背にして山崎・沖田、島田・斉藤がそれぞれ向かい合っていて
手前側には原田・永倉、千鶴・平助となります。一番ドアに近いのが千鶴ちゃん。(千鶴ちゃんの隣りは左之)

そして奥の島には土方デスク、手前の島には井上デスクが漏れなく付いてきます(笑)